帰路的通園記

2019年11月23日 過去の記憶を確認した!


黄色い実線が帰路だと思われる。


「田辺少年よ!よく頑張ったな!」

先日の帰省の際、ずっと気になっていた遠い日の記憶を92歳になる母に確認をしました。62年前の記憶についてです。東京タワーが完成した頃のお話です。

私は3歳から7歳まで宮崎県小林市に住んでいました。父は地方公務員でしたので転勤が何度もあり、1955年から1960年までの間は小林市の県税事務所に務めていたのです。市の中心部から随分離れた住宅地に住んでいまして、父は自転車で事務所に通っていました。10年ほど前にその時住んでいた住宅地に足を運んだことがあります。すでに当時の家は無く、駐車場になっていました。 

私が通っていた幼稚園は市の中心部にあったカトリック系の教会幼稚園でした。入園初日に幼稚園へ預けられて私は泣きじゃくり母を追った記憶が残っています。そして気になっていたのは、通園方法でした。現代では幼稚園バスや、両親の送り迎えが当たり前になっていますが、当時はどうだったのでしょうか?

当家から幼稚園まで距離にして3km以上はありました。大人の足で40分ほどかかる距離です。地図で調べてみました。以下のような距離ですね。当家には父が通勤に使うための自転車が一台だけありました。貧しくて母の自転車はありませんでした。当然、父が通勤に使うと母は私を迎えに行くことは出来ません。三歳年下の弟もいましたのでなかなか動きが取れませんね。毎日往復6kmの道のりを母が私を徒歩で送り迎えすることは不可能です。

朝の通園は、父が自転車の後ろに私を載せて行ったのだろうと想像していました。しかし、問題は帰路です。一体どうやって毎日帰宅していたのだろう?と長年謎だったのですよ。しかし、一度だけ帰路に起こった事件があって、その日のことだけは鮮明に覚えているのですが・・・。

その事件とは・・・。幼稚園の若い女性の先生が「今日は自転車で家まで送りましょう!」と私を自転車の後ろに乗せてくれたのです。たしかに私はその幼稚園で一番遠い家に住んでいる園児でした。幼稚園から2/3ほどの距離を過ぎたあたりで急なブラインドカーブで上りの坂道になります。その左側は浅い小川でした。

自転車がそのカーブの入り口に差し掛かったとき、荷物を満載した馬車が坂上から降りてきて、カーブで出くわしました。下り坂なので馬車も急には止まることは出来ず、先生の自転車は衝突を避けるために左に向かいました。が、その先は小川です。私を自転車に載せたまま先生は小川に転落!小川から自転車を引きずり上げた先生は、私を再び後ろに乗せて走り出しました。私の記憶はここまでです。下の画像の水色の丸がその現場です。     


上の赤丸が自宅。下の赤丸が幼稚園。

その後母から聞いた話では、自転車が家にたどり着いたとき母は不在でした。当時家に鍵をかけることもなかった田舎暮らしでしたので、先生は当家に上がり込み、タンスを開けて私の濡れた服を着替えさせてくれていたそうです。ちょうどその時母が帰宅してその場面に出くわしたのだとか。

この記憶からして、私は日頃どのように幼稚園から自宅まで帰っていたのだろう?と思い始めたので、先日の帰省の際に母に確認してみました。「あの遠い距離をどうやって毎日家まで戻ってきてた?行きはオヤジの自転車の後ろだったのだろうなと想像できるのだけど・・・」この質問に対して母は「幼稚園から家まで毎日歩いて帰ってきていたよ」というのです。その答えにびっくりしました。母は「今では信じられないよね。5歳くらいの幼児をたった一人で毎日歩かせていたんだから。いくら交通量が少なかったと言ってもねえ・・・」

そこで地図を調べてみました。ネットの地図は当時とは道路が少し変わってしまって、整備されていますので記憶との比較が難しかったのですが、幼稚園の位置、転落した小川の位置、自宅の位置は特定できました。通園路は上の画像のとおりです。黄色い線が帰路です。距離はやはり3km程度ですね。私はこの距離を一体どれだけの時間を掛けて歩いていたのでしょうか?スピードを大人の半分としても約1.5時間以上はかかるはずですね。

あの頃に戻れるわけはないけれど、あの日の自分が幼稚園から自宅まで帰る様子を観察したいと思ってしまいました。何を考え何をしながら毎日徒歩の1時間以上を過ごしていたのだろうか?友達と一緒に歩いていた記憶もないし・・・とね。当時は水筒を持っていたことはないし、のどが渇いたらどうしていたのでしょうか?小川の水を飲んでいたのでしょうか?それに気づいたとき、私は不覚にも涙を浮かべてしまいました。今更ですが「田辺少年よ! 幼稚園の2年間をよく頑張ったな!」と過去の自分に声援したくなりました。


その後、小林小学校に行き始めてからもほぼ似たようなコースで通っていましたね。自転車に乗れるようになってからは、学校の帰りに父の事務所に寄って父の自転車を三角乗りで自宅まで帰り、父の仕事が終わる頃に再び自転車で父の事務所へ。宮崎市に引っ越すことになる小学2年末まで続きました。これもまた今考えるととてもありえない状況ですが・・・。交通量が極端に少なかったから出来ていたんでしょうね。この事実の記憶もやはり、あの頃の自分にあってみたいという欲望に駆られますね。絶対に実現できないとは理解しているのですがね。


本日の結論
過去の記憶を掘り起こすと胸が熱くなりますよ。

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