郷愁的記憶母

2019年05月12日 母の日に想うこと。



「記憶はなぜか少し土埃っぽい匂い」

母の日は、毎年郷愁を誘うような記憶が湧き上がります。
幼い頃の記憶は断片的ですが、確実にその時代の匂いとともに強く浮かび上がってきます。しかし、今日はそんな自分自身の記憶とは違い、母から後年になって聞かされた話を想いだしました。

母親は宮崎の高岡と言う町で生まれました。宮崎市から西の方へ車で30分ほど走ったあたりにある田舎町です。町というほどのものもなく、ただのど田舎でしたね。子供の頃は母に連れられて季節ごとにバスで母親の実家へ遊びに行きました。そのちょっと傾いた古い家はもう無く、バイパスが通ることで取り壊されてしまいました。私の記憶の中にだけある風景です。

母の実家は戦前は庄屋をやっていてそのあたりでは金持ちだったようです。母は七人兄弟の末っ子で戦時中にも食料に困るような生活ではなかったようです。しかし、父親が57歳で亡くなってそんな暮らしも終わり、戦後に台湾から引き上げてきた私の父親と宮崎県庁で同僚となり、その後結婚。1952年に私が生まれました。

その時代はまだ戦争の爪痕が色濃く残っており、日本中が貧しい時代でした。そして私が2歳〜3歳位の頃の話です。母は、お嬢様育ちでしたので家計のやりくりというものがよく判らず、父の稼いできた最初の給料を数日で使い果たしたことがあったそうです。それ以来母は財布をもたせてもらえなかったようですが。

当時カネに困った母は、歩いて30分ほどの距離に住んでいた姉の家に足を向けたそうです。遊びに行くという口実で飯でも食わせてもらおうということだったのでしょう。ところがその道すがら、一軒の駄菓子屋の前を通った時、私が「アメが欲しい!」と何度も言ったそうです。しかし、その時母は一円の飴玉を買うお金すら無く、無一文で歩いていたとか。母は私に一円の飴玉ひとつ買ってやれない不甲斐なさに、涙をポロポロ流しながら歩き続けたそうです。

今考えれば、一円すら持てない時代があったことが悲しくも切なく胸の奥に刺さります。父は死ぬまで財布は自分が管理していましたが、その理由がそういうことだったのだとかなり後年になってから母に聞かされました。今はもうそんな時代ではありませんが、そうやって思い出した記憶はなぜか少し土埃っぽい匂いを鼻腔の奥に感じさせます。

毎年母の日になにを贈ろうかと悩むのですが・・・。本来であれば私が帰省して顔を見に行くことがベストであると想うのですよ。しかし、今年のゴールデンウイークは糖尿病治療の自主トレのため帰省するのをやめました。代わりに母の好きな日本酒に名前を入れて贈りました。手配の関係で早くも5月10日には届いてしまいましたがね。

あと何年これを続けられるかわかりませんが、親不孝な私はずっと故郷を離れて暮らし続けています。近い内にまたふらりと母親の顔を見に帰省するのもありかなと思い始めた今夜でした。


本日の結論
92歳の母に長寿万歳!

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