結婚的記念日


2018年12月21日 43年も過ぎてしまったのか!


2017年4月に娘が撮影してくれた。


「永遠のテーマですね

本日は結婚記念日。

1975年12月21日に結婚式を挙げた私達です。当時私は23歳、妻は23歳直前の22歳。世間では早すぎると言うのですかね。でもその時点で足掛け5年付き合っていましたからね。親も全く何も言いませんでした。後年になって母親に聞いたところ「早いと思ったけれど、本人らの問題だから言ったところで聞きゃしないと思ってね」と言っていました。ほぼ故郷を捨てるように上京してきた私にとって親の意見には聞き耳持たずでしたし。

2018年の本日でまる43年が過ぎ、44年目に突入いたしました。今年は何婚式?と調べてみたら特に名前のついていない年でしたよ。この写真は昨年の4月に娘に撮ってもらったもの。気づいた時に撮ってもらわないと、意外に夫婦のちゃんとした写真って残っていないんですよね。夫婦だけで生活するようになると、特に人様に見せるように意識して撮影はしないですからね。さてさて、このまま結婚50周年の金婚式まで無事にたどり着けますかね?

このところ毎年続いている結婚記念日の朝の風景は・・・。私が妻に「結婚記念日おめでとう!」と朝イチで挨拶すると・・・「あら、すっかり忘れてた!」と返って来るんですよ。こんなもんですかね?普通は妻が覚えているのでは?

長年に渡り妻はほぼ毎日スポーツジムに通っています。午前中の家事が終わる11時頃から出かけてしまい夕方18時から19時ころに帰宅します。娘が嫁いで以降、夫婦二人きりで生活しているのですから私は昼間毎日ほぼ一人で自宅にいることになります。半分は仕事して半分は好き勝手なことをして過ごしています。この、昼間妻がほとんど家に居ない生活というのに私はすっかり慣れてしまって、お互いにこの方が楽なのではと考えています。相手に気遣うこともなく、食事は好き勝手に採っていますが、ここ数年はあまり昼食を食べなくなりました。体を動かさないので腹も減らないしね。

結婚した頃、ぼんやりと考えていた生活状況とは全く違っていますが、これはこれで良かったなと思っています。最近は、孫の守りで妻が呼び出されることが多くなり、週に数日は娘の家に出かけている妻です。娘がフリーカメラマンとして働き始めたので、娘に仕事が入ると妻が孫たちの面倒を見なくてはならないからです。まだ7歳、4歳、2歳、の3人ですから、一番下が幼稚園に行くようになるまであと2年以上はこの関係が続くでしょうね。

43年間はずっと平穏だったわけではありませんが、なんとなくここまでたどり着きました。一番きつかったのは、私の「鬱病」期間でした。2005年から2012年までの7年半は、重く苦しい日々でした。お互いによくあれに耐えたなと感じます。生きる屍と化した私を穏やかに見つめるだけの妻の日々はどうだったのでしょうね?その間も、妻は毎日スポーツジムに通っていましたが・・・。後半は私がギターペダルを作り始めたことで、いきなり環境が変わってしまい混乱することも多かったのですが、その混乱期もなんとか脱して今があります。

振り返ってみると、お互いのやっていることにあまり口出ししないことが長続きする秘訣のような気がします。旅行だって、二人でいったことは殆ど無く、妻は彼女の姉妹たちと行くことを喜んでいますし、私も一人旅のほうが気楽ですしね。多分、私の旅に妻が付き合ったら「えっ?今日はどこにも出掛けないの?」と頻繁に言われてしまいそうです。例えば、私がアメリカの友人宅に一人旅したときは目的が「英会話習熟」ですので観光地めぐりする気はまったくなく、その家で料理したり散歩したりとのんびり過ごしていました。

私はホームステイが大好きなのですが、妻はとても気遣いするタイプなのでホテル以外に泊まることをとても嫌がります。実家や姉妹の家でもそのようです。この感覚の違いが一緒に旅行することを阻害しているんですね。それでも、長年一緒に生活しているわけですから不思議なものです。

本日時点で私は66歳。妻は65歳。今年中に妻も66歳になります。お互いの父親は60歳台で亡くなりました。それを考えると、これから先はそんなに長くないのでは?とも考えます。まあ、時代が長寿を後押ししているのでそう簡単にくたばらないとは思っているのですがね。私は母は現在91歳で長生きしています。まだまだ元気ですし。

来年の春になれば、私の父親が亡くなった年齢の67歳に私も到達します。その年齢に近づくに連れ、父の思いが少しわかるような気がしてきました。父は66歳で前立腺癌になり、発見された時点で余命3か月と宣言され、その直後から延命治療のため8か月間病院に閉じ込められていたあの最後の日々は、とても悔しかったと思うのですよ。

達筆だった父が、かつて一度だけワープロ打ちの手紙を送ってきたことがありました。誤変換ありのぎこちない手紙でしたが、なんとか頑張ってキーボードを打った努力が観られました。きっと、あのまま生き続けていたら、Macで絵を書いていたかもしれません。若い頃は画家になりたかったんですよ。油絵はたくさん描いていましたね。

夫婦の記念日なのに、何故か父のことを思い出してしまいます。両親の結婚記念日は4月28日です。平成2年4月28日の時点で父は昏睡状態でした。毎年父がその日に母親へバラの花束をプレゼントしていたと聞いて私は父に変わり母へバラの花束を贈りました。そしてその翌日父は亡くなりました。

父の最後の言葉は「もういい・・・ありがとう」延命治療を中止するようにとの意思でした。その時母は私向かってこう言いました。「敏彦・・・いいの?あんたが決めて・・・」母親は自分の意志ではそれが決められなかったようです。長年連れ添った仲でそれを決めるのは酷ですよね。私はすぐに医師を呼び父の意思を伝え医療機器のスイッチを切るように頼みました。それから2日後父は亡くなりました。

なぜ今日これを思い出したのか?その根底にあるのは夫婦の関係性だと思うのですよ。妻は夫の苦しみを知りつつ最後の決断をできず息子に委ねる。父はその治療の際限ない時間の浪費と妻の疲労にようやく気づき生への執着を捨て人生の幕引きを自分で決定した。その関係性が夫婦だったのではと考えます。

この年令になってくると、そういう事態はいつやってきても不思議ではなく明日起こるかもしれません。その際の覚悟は父に見せてもらった気がします。生きることに執着しつつ最後の瞬間にそれを捨てられるのか?永遠のテーマですね。


本日の結論
金婚式まであと7年。無事に過ごしたいものです!

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